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図1 東福寺 東司内部
室町時代の禅宗式の厠内部。
通称百(ひゃく)雪隠(せっちん)。 |
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図2 東福寺 東司再現図 |
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図3
報酬庵 一休寺東司
禅寺では御手洗いのことを、東司と呼びます。
ここの東司も重要文化財に指定さ
れています。
重要文化財の御手洗いは、
全国でも数少ないものです。
1650年
(慶安三年)、
方丈再建の時に新築されたものです。 |
お正月から厠という臭いところの話で恐縮です。
厠(かわや)は、多くある便所の別名の中でも古く、奈良時代から見られるといいます。
712年『古事記』には、水の流れる溝の上に厠が設けられていたことが示されており、川の上に掛け渡した屋の意味から、つまり「川屋」を語源とする説が有力とされてきました。
また、現代では住居の中に便所を作るのが一般的ですが、少し前までは母屋のそばに設けるのが一般的でありました。
そのことから、厠の語源を「側屋(かわや)」とする説もあります。
日本では古くから民家の奥、裏、土間、天井などの私的な暗い領域には神秘的な神霊が宿っているという伝統的な信仰がありました。厠についても精霊的な存在として河童譚や出産の習俗などと深く結びついています。
日本家屋の暗所の祀られた厠神は、生死や新旧を転換する強力な霊威をもち、この世と霊界との出入り口に宿ったとされました。
飯島吉晴氏は、『竈神と厠神』で民族学的な観点から、以下のように述べています。
事例 「大歳(おおとし)の客」という昔話 新潟県南魚沼郡六日町
年の暮れに按摩が身上のよい家に泊めてくれと頼みますが、断られます。次に貧乏人の家に行きますと快く泊めてくれました。朝飯に按摩が起きてこないので蒲団をめくると、金銀の宝物になっていました。身上のよい婆がこれを聞いて按摩を泊めてご馳走し、よい蒲団に泊めます。すると翌日蒲団の中には灰瓦や糞がある。婆は洗濯に行って井戸に落ちて死んでしまいます。
昔話はさまざまな解釈が可能であるが、「大歳の客」の場合は黄金と糞便で時間の死と蘇りを表現したものと考えられる。死体が大晦日を境に黄金になる「大歳の火」という話では、年の新旧交替がはっきりと読みとれる。死体は古い年を、
黄金は新しい年を表わしているわけである。「大歳の客」は、大晦日の出来事である点でほぼ共通しており、(節分や庚申のものもあるが、いずれも時間が更新する日である)、また、黄金や糞便にかかわるものには、按摩、遍路、六部、乞食といった遊行的職業者や宗教者が多い。これは、話の運搬車とも見られるが、
時間の新旧交替がはっきりと媒介する神のやつし姿と見る方がよいかもしれない。「大歳の客」では、よい爺婆とわるい爺婆に二分化しており、同じ按摩や座頭が一方では黄金に、他方では糞便になって、大晦日から元旦への年の交替を表現している。大晦日は年の境目にあたるために、黄金と糞便が同時に出てくるのである。(『竈神と厠神』)
糞尿などの排泄物は汚いものとされています。そして汚いものは臭いものでもあ
ります。こうして汚いものは単に排除されるものではありませんでした。糞尿は肥と呼ばれますように肥料となって新たな作物を生み出すように豊穣性のイメー
ジを持っていました。糞尿(厠)のイメージは新と旧、生と死、といった両義性を持っていました。
”Fair is foul, and foul is fair.”とは、『マクベス』の最初、第一幕第一場で魔女たちの言葉としてシェイクスピアが書いた台詞です。日本語では「きれいはきたない、きたないはきれい」と訳されます。魔女にとって、天気が悪い日は天気のよい日。つまり、魔女が見ると人間にとってはきたないものでもきれい
に見え、この逆も然り。
私たち現代人の感覚では、汚いものは良くないもの、自分にとって不都合なこと
は良くないこと、不便なものより便利なものという思考方法に慣らされてしまっているのではないでしょうか。
このような自分にとって都合のよくないものを排除する、あるいは見て見ぬふり
をする、臭いものには蓋をする感覚は、嗅覚のレベルでは無臭文化を生み出してしまいます。においのしない納豆が売られる。老人の加齢臭を毛嫌いする。口臭をやたらと気にする(誰だって多少は口は臭っているのですが)。臭くないウン
コのための薬を飲む。
厠などの汚い、臭い、不浄といった否定的なイメージのものを現代人はただ排除
しようとします。このような思考方法と「新と旧、生と死、といった両義性を持つ思考方法」を、シェイクスピアはと表現しています。
多分昔の人も糞尿の匂い心地よく感じていたのではないと思います。しかし、そうした生理的に嫌なものに対しても全体的には何か意味のあることとして認めよ
うとする想像力があったのではないでしょうか。この想像力(イマジネーショ
ン)がさまざまな昔話を生み出す源であったのでしょう。
再び飯島吉晴氏の『竈神と厠神』から
今日では、厠はふつう化粧室(トイレ)と呼ばれている。化粧は自ら他になるという化生、転生への意志であり、美はその副次的な産物にすぎない。化粧は移行のイメージとつねに結びついているために、首尾一貫した秩序の論理から見ると許しがたい逸脱である。だから、化粧は本質的には闇の世界である異界の側に属する行為といえる。化粧が別世界に参入する生まれかわりの行為とすれば、化粧と厠は深層においても通底していると考えることができる。
「きれいはきたない、きたないはきれい」
このことばに含まれている思考方法は、とても大切に感じられます。
参考文献
『竈神と厠神』 飯島吉晴著 講談社学術文庫 2007
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