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図1 香木 銘「柴舟」
宇和島伊達家伝来品図録より転載 |
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図2
宇和島市立伊達博物館全景 |
先月号の「武将は名香を愛した」に引き続き、大名と香りについての第2回目です。
前回のときにも述べましたが織田信長や豊臣秀吉、徳川家康にしても香木にかか
わるエピソードがあるように、香木は大名にとってのステイタスシンボルであっ
たようです。
雅楽書の『体源抄』には「大将は必香炉隋身あるべき事なり」とあります。また森鴎外の『阿部一族』では、「討入り前、髪に名香初音を焚き込めた」とありま
す。
『常山記談』には「木村が首を御首に出すに、髪に焚きしめし奇楠香(きなんこう=伽羅=沈香の極上品)の薫せしかば御感あり」とあります。出陣のときに兜の
中に香木を焚きしめて心を静め、その甲冑を身にまとってゆく武士たちは、死に化粧を妙なる香りにも重ね合わせたのでしょうか。不適切な言い方かもしれませんが、とてもかっこいいですよね。
さて本題の伊達政宗、伊達家と香りについてです。
・伊達家に伝わる香木「柴舟」(図1)
伊達家には「柴舟」という銘の香木が伝わっております。
『翁草』(安政五〈1776〉年成立)によりますと、細川三齋があるとき、家臣興津弥五右衛門を長崎に遣わしたところ、同じ頃に来あわせていた伊達家家臣と同木の伽羅をめぐり上質の部分を得ようとして互いに譲らず興津は末木を勧める同行の相役を切り捨ててまでして元木を持ち帰ります。森鴎外はこの話をもとに『興津弥五右衛門の遺書』を書いています。
また一説によりますと、長崎において、一木の伽羅の購入に際し、肥後細川家、加賀前田家、そして伊達政宗の命を受けた家臣たちの間で殺傷事件まで起きたといいます。
事の重大さに一計を案じた三家の家臣たちは、三家共同で買い取ることにし、まず、勅銘を乞うために最上部を切り取り、残りを三等分してくじ引きにしました。
この逸話は17世紀のものであり、真実かどうかは定かでありませんが、名香は確かに各家家木として伝えられました。宮中に献上された伽羅は「藤袴」、前田家は「初音」、細川家は「白菊」、伊達家は「柴舟」と名づけられました。特に伊達家では政宗公がこの香木をこよなく愛し、その銘も、謡曲「兼平」の「世のわざのうきを身に積む柴舟はたかぬさきよりこがれゆくらん」の歌により、自ら名づけたといいます。
また香の同人であった近衛信尋から、「いつでもいいから、酒を飲みながら香の品定めをしましょう。他人には、太子堂という伽羅をあげて、柴舟は秘蔵にしなさい。でも、僕たちには、もう少しくれてもいいですよ。(笑)」というような内容の手紙をもらっています。
亡くなる前年(1635年)には、柴舟を家光に贈呈し、「柴舟の香木お送りいただいて、とても希に秀でたものだと思いました。万事念入りに心遣いいただいてありがとうございました。」との礼状をもらっています。このような貴人とのやりとりからも政宗が当代屈指の文化人であったことが伺われます。
この「柴舟」は、現在愛媛県宇和島市の宇和島伊達家伝来品として保存されおり、宇和島市立伊達博物館(図2)で展示されるときに見ることが可能です。
政宗の長男(庶出)秀宗は、大坂の陣ののち、伊予宇和島10万石を与えられ、初代宇和島藩主となり、宇和島伊達家が幕末まで続きました。宇和島伊達家の「柴舟」は政宗より秀宗が拝領したものとされています。
余談ですが、今回のために宇和島市立伊達博物館にまいりました。宇和島伊達家伝来品の数の多さと質の高さ、すばらしさには驚くばかりでした。(香道具や「柴舟」以外の香木もかなりあります。)よくこれだけのものが残っていたというのが正直な感想でした。
宇和島伊達文化保存会の尾崎太祐氏によりますと、ひとつには戦災から免れたこと、それと散逸しないように早くから保存会を発足させていたことによるとおっしゃっておりました。宇和島に行くときには是非立ち寄ってみてください。
・政宗が主催した香道での香会の記録
さて伊達家と香りのかかわりでもうひとつ重要なことがあります。それは政宗が主催した香道の香会の記録が現存しているということです。
寛永3年(1626年)7月、京都三条の仙台屋敷で、関白近衛信尋を主賓に迎
えて行われました。香記録によりますと、この会の正客は近衛信尋、次客は一条
兼遐(かねとお)で、連衆に烏丸光広(本阿弥光悦と並ぶ名筆とされた)、西洞院時慶など、それに政宗、忠宗父子。他にも当代きっての文化人が参加したもの
でした。
ちなみにそのときの政宗は10のうち5つ正解しており、なかなかの成績といえるものです。
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